昭和41年06月26日 朝の御理解



 信心をさして頂いてありがたいというのは、どういうとこを言う。信心さして頂いておる有り難さというのがあると。皆さんはどこに、その有り難さというものを感じておられるだろうか。信心さして頂いて有り難いなぁということ。私は神恩報謝の生活ができることだと思う。神恩報謝の生活が出来る事を教えて頂くということが、信心を頂いておる有り難さだと思う。
 どうでしょうか皆さん。長年信心をしよっても自分の思う様にならなければ、有難くない。おかげを受けなければ有難くないと。というのであったら、信心をさして頂いておると言う事の、一番有難いという所から、もう既に漏れておるという気がしますですね。神恩報謝の生活が出来ると。生かされて生きておると。自分が生きておるんじゃない。生かされているんだなと。生かされて生きておるという事が分からして貰います。それがいよいよ実感されるおかげを頂くために、信心の稽古をしなきゃいけません。
 自分で生きとるというのはありません。生かされて生きておる。分かっておるんだけれど、生かされて生きておる事に対して、さほど言うなら、神恩報謝の心というものが湧いてこない。昨日、福岡の渡辺先生がお参りして見えてから。今朝方お知らせを頂いたと。どういうことを頂いたかというと、生かされて生きておる私と。次に導かれておる私と。次に守られておる私という。皆さんこの事をほんとに素晴らしいことだな、というふうに思われるでしょうか。
 生かされて生きておる私。導かれておる私。守られておる私。ですから今日私が申します、信心さして頂いておる者の一番有難いというのはどこかというと、日々神恩報謝の生活ができると言う言。所がいわば何十年信心しておっても、神恩報謝の生活が出来ない人がある。もう金光様の信心ちゃ有難かですよ。いついつじゃけんも医者から見放された誰々が助けて貰いました。もう毎日お参りさして頂いて、お取次ぎを頂いてから、毎日の事を願わさして頂いて、商売の上にも繁盛のおかげを頂いております。
 本当にごひれいさんとしておる事が有難い。これだったらですね、いわゆる金光様の信心じゃなくてもいいんですね。わざわざ天地の親神様じゃなくてもいいわけなんです。そうでしょうもん。生かされて生きておると。ということに、神恩報謝の心が湧いてくると、いよいよそれが、心からそう感じられるという、おかげを頂くためにです、いよいよ導かれておる私ということをです、実感さして貰う様にならにゃいけません。導かれておる。導かれておるってことはどういうことかと。
 なるほど導かれておるんだなぁと。どう言う様なふうにして、神様が成り行きを下さるか。私共が思うておる様々な問題、又は悩み苦しみ難儀と言う様なその中からです、そのことを通して私どもはいつも導かれておる。ですからそのことによって教えて貰いよる。そのことを通して導かれておる。ここにある時には、もう不平もなからなければ不足もない。そうですね。そのことをもって導かれておる。守られておる私。その神様のご守護を受けておるんだなと。
 いつも神様の特別のご守護の中に、私共があるんだなと分からして頂く。ね、なるほどここんと頃の三つをですね、私どもが分からして頂いたら、神恩報謝の生活をするなというても、しなければおられないと言う事になってきます。そうでしょうが。人のせんような難儀。人並み優れた悩み。なるほど人並み優れた悩みとか、人並み優れた難儀というのは嫌なことだと思うておりましたけれども、人並み優れたその難儀を持っておるおかげで、人並み優れたところに導いていけれる。
 例えばなら私がです。人並み優れためぐりを持っておる、だから人並み優れた難儀をしたと。誰にもこの難儀をしたことなかろうという、難儀をしたおかげで、誰でもまだここは住んだことなかろうと、言う様な所に私は住んでおるということ。そうでしょうが。ところが難儀はしておっても、おかげは受けておってもです、そのことによって導かれていないから、一つも有り難味が湧いてこんのです。
 ただそのときに、難儀な事を助けて頂いたいう事だけが有難いのですから、喉をも過ぎれば熱さを忘れるということになってくるのです。そのことを通して導かれていないから。そのことを通して分かっていないから。私の信心が育てられたというなら、あの時に育てられたんだなぁと。あの時に導かれたんだなぁと言う様にです。でなかったら、導かれている私という実感が生まれてこないのです。
 まだまだ例えば長年信心さして頂いておっても、いつあんなおかげを頂いた、こん時にこういうおかげを受けたと言うてもです、あの時この時と言う事がおかげを受けたという時だけではです、本当に導かれておるんだなぁと、例えば難儀がここに起こって参りましてもです、この難儀で又神様がどういう素晴らしい所に、素晴らしいどういう素晴らしい境地を開いて下さるか。どういう素晴らしい所に、導いて下さるか分からんと思うから楽しいのです。導かれておる私。なんと素晴らしいことじゃないですか。
 私はその事を聞かせてもろうてから、神様の知恵って素晴らしいなぁと、私は思うたです。私どもが考えて考えつく事じゃないです。生かされておる私、導かれておる私、守られておる私。もうなぁんも文句言う事はないです。文句どころか、もう本当に心からの感謝を捧げなければおられんのであり、日々が神恩報謝の生活さして貰わなければ、もう勿体のうして勿体のうして、たまらんというのである。それにいうならです、ただおかげを受けることが有り難いと。
 金光様の信心、毎日お参りするのが、何故そげん有難かってすか、一遍参ってご覧なさい有難かけん。はっご理解も有難い。おかげを受けのも受けるから、私はこんなおかげを受けた。成程それも有り難い。けれども信心さして頂いて一番有り難いのはどこかというとです、いわゆる神恩の広大さも無辺さも分からなかった、その私にです、神恩の広大さが分からして下さった、生かされて生きておるということを教えて下さった、例え熱があっても腹が痛んでおっても、死んでおるのに熱が有る筈ない。
 死んでおるのに痛みがあるはずない。痛んでおるということも、熱があるということも生きておる証拠であるとの、それがわかった時にです、痛んでおることにも、熱のあることに対してでも、生きているしるしに対するところの、お礼が言えれるということ。毎日の神恩報謝の生活が出来るということが有難い。これを金光様以外の信心で、その神恩報謝の生活が出来るでしょうか。それはまぁ仏恩報謝の生活ということは、出来るかも知れません。それはけれどもあまりにも小さい。
 お道における神恩報謝というのはです、天地を丸い丸生かしにしてござる神様。生きとし生けるものの上にです、いうならご守護下さっておる神様。生きとし生けるものを、特にとりわけ人間氏子の上に、お導きをたてたもう所の神様。難儀な氏子であれば難儀な氏子である程です、屑の子であれば屑の子である程、神愛をかけて下さる所の神様。そういう偉大な神様をです、私共は頂いておって、その神様の尊い御神恩を分からして貰わなかったら、またまぁ神様でも仏様でも同じ言っち言う事になる。
 金光様の信心をさして頂くようになって、初めて天地の中に、氏子幸せにせずにせなおかんという働きのある事を分からして貰いましたと。本当に何十年私どもは、その事に対してから全然感じてもいなかった。神恩報謝なんて思うたこともなかった。そこのところが分かって来たから、有り難いんであるという信心に成って行く為にです、生きとし生けるものまぁと言うとあまり大きいですから、私達信心さして頂いておる者と言うてもいい。人間だけで、人間というてもよい。
 神様のおかげで、お生かしのおかげを頂いておるということ。生かされて生きておるということ。その生かされて生きておるということを、いよいよ有難いものにするためにです。いよいよ導かれておる、私ということが分からにゃいけん。どういうことを持って、神様は導いておって下さるのか、教えを持って導いて下さるということは、ただいま私が申しますようなことを、導いてくださるのです。どうぞ導かれておる私という実感。今またその難儀を感じておられるならです。
 このことを持って、神様が導いておって下さるんだと思ったら、これほど有難うなる。これほど有難うなるから、有り難しという心すぐにみかげの始めと言う事になるのですよ。どんなに言うことを聞かぬ息子がおっても、どんなに意地悪い姑親がおっても、その言うことを聞かぬ息子が、いじめられるお姑さんが、お導きの親であるということになって来ると言う時に、その子供と親にお礼を言わねばおられん、これが本当の事が分ると言う言。導かれている私ということは、そこが分かる事なんだと。
 そういうこの息子が、言う事を聞くようになりゃいいが、このお母さんがもう少し優しくならっしゃたらよかかろう、ばっかり言うて願うておるから、いつまでたっても本当のところになってこんの。こうなら金銭なら、金銭の難儀ということにおいても、早う楽になりたい。早う借金払いがしまえたら、どんなに頭が軽うなるじゃろうかと、いうことばっかり考えておるから、おかげにならん。この経済が、経済の難儀によってです、私を導いてくださっておるんだということ。
 この難儀もまたありがたい、ですからこのことによって、導かれなければ神様に対してあいすまん。導かれておる私。もうこれ三つの事ですから思うてから、ずっといままで頂いて来たご理解を照り合わしてですたい。この三つの事の素晴らしさを、ひとつ皆さん本当に分かったらです、いわゆる神恩報謝の生活、本当にできるんですよ。生かされて生きておる私。導かれておる私ということが分かったですね。そこで今度は守られておる私。この守られておる私ということが素晴らしい。
 そこで私共がぎりぎり、自分というものを本当によく分からなきゃいけん。それこそ無力なる私。障子一重がままならぬ人の身ぞと。障子一重がままならぬほどの、何にも分からない私であることを、まず分かれということ。なぜそれが分からないけんかと。いわゆる守られている、私ということ分からして頂くために、ここを誰より彼よりも分からして頂くために、誰よりも彼よりもいわば、無力である私であるということを、分からしてもらうということ。話を聞けばすぐ守られている私は分かるんです。
 そりゃ生かされて生きておるということだって、導かれておる私ということだって、話を聞きゃあすぐ分かるだけど、実感としてです。私は例えば今の二つのことがです、生き生きとしてなるほど導かれる私であるなぁ、生かされている私であるなぁ、ということが分かるためです、守られておるということが分からなきゃいけん。神様は屑の子ほど可愛いとこう。その神様が可愛いという働きもです、ほんに感じなければ、神様こげんして私を可愛いがっておって下さるんだと、言う事を感じなければ。
 ためには先ずは私自身が、いよいよもっても屑の子であるという自覚をです、自分が気の利いた子のように思っておる、自分がこれができるごと思っておる、自分でこのことだけは、これだけは自分の独壇場というふうに思っておる。そこからはいわゆるままよといった私といったのは、非常に薄い希薄なものになる。そこを誰よりも彼よりも、そこんところを守られておる、私ということを分からして貰うために、いよいよ屑の子の自覚に立たして頂かないけん。本当に私が一番つまらん私だろうということも。
 障子一重がままならぬ人の身ぞと。障子一重向こうのことが、分からないほどの私なんだ。私に何ができるか、おかげを受けなければできるこじゃないという。そこにです、屑の子ほど可愛い、特別のご守護を感じる事が出来るのです。とくに感じることは、それこそ力の弱いものほど、神様のご守護というもの、はっきり表しとって下さる。屑の子ほど可愛いと仰る、まぁ働きが、例えば雨蛙なんか見てご覧なさい。
 小さい雨蛙がおるでしょう。あれがあの例えば、そこの庭でいうならば、榊の木にとまっておる時には、本当に榊の葉やら雨蛙分からん位に、色になってしまうでしょう。向こうの竹やぶの影に飛び移りますと、今度はみるみる間に、あの黄ない色になってしまうんですよ。あれをだからあの保護色と申します。あぁ言う例えば本当に、その小さい動物、小動物の上に至るまでです、天地の親神様はそれが力がないならないほどです、その力のないものを、お守りくださる働きなんです。
 自分でこんな色に、竹の子の竹にいっちょ変わろうと、草ん中にあるけん草の色に変わろうと変わるんじゃないです。天地の親神様が御保護を下さる、ご守護を下さっておる現われなんです。そう言う様な働きがですね、私共の上にもですね、日常にあっておると言う事です。それがですいよいよ我無力であると言う事が、分かれば分かる程です、私は力がない。障子一重がままならぬ人の身である、という自覚が出来て来る様になるとです、もういよいよ、神様がもう微にも細にわたってご守護くださるです。
 これは不思議です。そこから私はですね、自分というものの、無力である自分であるということを分からせて頂く。そこから特別の、いわゆる特別の、神様のご守護が始まることを、体験なさらなければいけません。私を特別に、神様守とって下さるんだなぁと、神様特別に、私に眼をかけておって下さるんだなぁと。そこに誰だってそこが分かるときに、神様有り難うございますと、お礼の申しられんはずがない、申し上げなければおられなくなってくる。
 まぁ例えば三つの事を、まぁ色々申しましてけれども、三つの事を皆さんがようく心に留めておいて、成程生かされて生きておるしるしだなぁ、と言う事を先ず分かりなさいませ。自分で生きておるんじゃないなぁ、生かされて生きておるんだなぁと、成程考えてみるとこの事によって、私導かれたんだなぁと、もう絶えず導きを導いて下さる働きというものがあっておる。とりわけあの難儀な時に、私は導かれたんだと、するとあの難儀のおかげで、と言う事になるときに、もう難儀ではない神愛だと言う事。
 導かれておる私。二つ。三つ目が守られておる私。ここの三つの本当の事が分かる時です、神恩報謝の生活が出来ん筈が無い。難儀だと思っとたのは難儀ではない。自分が偉そうにしとったのがです恥ずかしくなってくる、程の私であった事が分からして貰う時に、御守りを頂いておる事がいよいよ強く心に感じられる。おかげを受けられる。生かされて生きておる私。導かれておる私。守られておる私。そう言う様な事が分からして頂くということがです。それを実感を持ってそれを感じられる様になった。
 と言う事がです、お道の信心を差して頂く事の、有難さでなからなければ、ならんと思うのです。ですから皆さんが有難いと思っておられるのと比べてみて、はぁ自分の信心はまだ浅はかなもんだなぁと気づかれたらです。ここんところを分からせて頂くのが、ここんところを実感させて頂くのはです、訳のないものです実を言うたら。そして日々をです、神恩報謝の毎日をお暮して貰う。神様が喜んで下さる。私共が喜べれる。いよいよその喜びを大きくしていくところの、働きがもちろんそこから始まってくるでしょうね。
   どうぞ。